そろそろ目覚めたほうがいい。
目覚める準備をしたほうがいい。
そして、永遠に眠るつもりなら、
おあつらえむきのベッドが、いつでも
おまえのために用意されているのだ。
感情は、アナログ、温感、色、匂い、音・・・
思考は、デジタル、数値、線、風景、言葉・・・
感情は自分と自分以外の区分けを前提としている。
たとえば、快、不快は感情機能の基本である。
それは、他が自分にとって快かどうかだけを問題にする。
思考は、感情とは異なる出発点から作用する。
それは、自分と他人を区別しないところより始まる。
客観といわれるところのものである。
ところが、僕らの知っている言葉で表現できる感情機能で客観的なものがあるのかもしれない。
それは私と他をまったく同様に見渡し、区分けなく両方をみとめる。
ある人にはまったく現れず、他の人にも人生の一瞬としてひらめく程度なのかもしれない。
だから、とりあず、そのような感情機能があると仮定するなら、
それを、あえて「あわれみ」とでも呼んでおきたい。
そして、それがすべてである、
今見えるものが。
隠し持つもの、持つかもしれないものをも含めて、
それがすべてである。
その最小のすべてから始まらなければ、
なにも持たずに死ななくてはいけない。
それほどの屈辱を花束にしても
おまえの死は、だれにも祝われることも、
悲しまれることもないだろう。
そこから始まらないのならば。
メールがこれだけ発達した主要な原因は
それが実用的であるとは別に
それがある種の都合のよい効果をもつためです。
それは、受け取った人を保障してくれます。
世界の中での位置を担保してくれるのです。
そこで、メールは人々を孤独から救い出してくれます。
それらのメッセージに対して、逐次応える必要はありません。
都合のよいときにだけ、その「脱孤独機能」を利用すればよいだけです。
労せずして、人々は、気軽に孤独を癒やすことが可能となります。
人々は、自らの深淵に浸ることなく、他人の表層に漂い、
他の従来の近代的な道具同様、
軽快に、安易に、自らの貴重な孤独を破壊していくのです。
奇跡とは
普段見慣れていないもの
物質的変化した超常現象
十字架からこぼれるイエスの涙とか
もっと世俗的には
北海道の人が、初めて、冬に九州を訪れて感じるもの
ではありません。
実に、奇跡は、毎日 起こっているということにまったく 誰も気がつきません。
(これは驚くべきことなのです。)
奇跡は、毎日、毎時間、毎分、毎秒、生起しては消えていきます。
奇跡は、常に、私達の目の前にあるもの、そのものです。
それに気づくと、やっと、それは奇跡とは呼ばれず
やっと「貴跡」とでも表現されるのでしょうか。
人間の意識は、数秒で変化し、死滅していく。
連続した意識の状態はどこにもない。
5分後の人間は、以前の人間ではない。
シャボンの泡が割れていく。
ぼくらはひとつの泡それ自体だろうか?
中心のない朦朧とした泡全体だろうか?
-ーシュタイナー
「五分間でもよい。ひとつの単純な思考内容に没頭することだ。」
ーーグルジェフ
「自分を一人と考えている限りは、一歩たりとも進むことができない。自己修練は自分の中に2人の人間を感じたときから始まるのだ。」
そして彼女の手は
地上にない方向を指さした。
「岩屋に寝入る鶏」のほうでもなく
「泉に踊る骸骨」のほうでもなく
「枯れ根に灯る炎」のほうでもなく
かって過ごした一回の休日のほうへと
彼女の手がゆっくりと弧を描く。
人間は99%以上の自動機械だ。
つまり、習慣の塊である。
「意識的な発動」というものは、まず存在しまい。
しかし、選択の道はあるのかもしれない。
世界からコーディングされるにまかせるか?
自らをプログラミングしようと試みるか?
--リルケ より抜粋--
なぜならわれわれは樹皮や葉にすぎないから。
各自がおのれの内にもっている偉大な死は
それをめぐって一切が変転する果実だ。
~~~~~
結局、人がなぜ「パンのみに」生きることができないか。
パンによって
生きることはできても
死ぬことはできない。
死ぬことができなければ、
生きることはついには完成することはない。
〜尊大でなく、人に馴染みのある風景として〜
ーーだから リルケは次のようにいったのだーー
結果を思い煩らず 饒舌をせず
おまえの美をつねに捧げものにせよ
おまだがだまる すると美は
おまえのかわりにいうだろう わたしはある と
ーーそして 当然のように次のように続けるーー
そして美は千もの意味でおとずれる
ついにはそれはすべての人におとずれる
まだドゥイノは歌われていない・・・
にしても、優しく柔らかで精妙な調べだ。
「運命」
運命という言葉がある。
だれかが なんとか やり繰りしてくれる そんな世界のことなのか。
自分でなにもしたくないし、自分のために 指の一本も動かしたくない世界のことなのか。
まぁ、そんな のんきな世界はどこにもないのだろう。
運命にのみこまれた人間の死は ほとんど溺れる魚のようだ。
投げられた球が放物線を描いて唐突に落ちて来るのにも似ている。
昇る時には、不可解な興奮に満ち、
落ちる時には 熟知した不安と絶望に苛まれている。