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銀河鉄道 ~此岸から彼岸への旅~

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今日、ふと、ラジオから、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の朗読が・・・
ちょうど、「船で遭難した青年と子供」の章。


もうそのうちにも船は沈みますし、・・・ 
どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫さけびました。
近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈のって呉くれました


船が遭難し逃げ惑うという状況のようだけど、
上の文章はなんという「精神の静謐さと敬意」にあふれているのだろうか?

あらためて 「銀河鉄道の夜」が死への道行きの描写であることを再認識したんだけど、
しかし、宮沢賢治という人は本当に真摯な人だったんだと思う。
上の文章の隅々にそれが染み出ている。

続き

この賢治的な真摯な死へアプローチがよくあらわれている文章があったので長いけど引用する。


「あ、あすこ石炭袋ぶくろだよ。そらの孔あなだよ。」
カムパネルラが少しそっちを避さけるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。
天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。
その底がどれほど深いかその奥おくに何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。
ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」


主人公が子供であることは、死への賢しらさを消去するよい手法だ。
カムパネルラは死者であり、ジョバンニは死者の道行きの証言者=随伴者なのである。
カムパネ(ル)ラが、もの悲しい音色で死への畏れをつつましやかに奏で、ジョバンニは敬虔さ(さいわいをさがしにいく)を雄弁に歌いあげる。
上の文で重要なのは「みんなのほんとうのさいわいをさがしに」と歌っていることだろう。
私のでもなく、あなたのでもなく、「みんな」のさいわいという点だ。
クリスチャン的なセンスを感じる文章だけど、教権的な嫌味を感じさせない賢治らしい素直な表現である。

「銀河」とは、暗闇の中の光だから、死の中の生という視覚的イメージが沸く。
さらに、銀河=天の川=>三途の川の類推は容易なので、銀河とは、いわゆる「三途の川」の別名でもある。
つまり、「銀河鉄道」とは、「三途の川」同様の死への航路のレトリックである。
しかし、賢治はそこに明るい希望をこめる。
銀河鉄道に乗る彼らは死の道をいく単なる亡者ではなく、もっと自由ななにかであることを賢治は表明している。
それは、死の終点へ連れて行かれるのではなく、自発的に「さがしにいく」からである。
それも「みんなの」ために。
(※個人的には、この「みんなの」という表現は好きではない。
 というか、死は共有できないものと思うからだけど・・・
 しかし、死を明るく照らすためにはこの「共有」=「社会化」作業がいるのだろうな~とは思うけどね・・・)
賢治は、古臭いが本質的な「死への道=三途の川」という概念を、銀河という世界の中で、因習的な仏教的死生観をキリスト教的・叙情的・詩的に昇華させたのである。

そこで、カムパネルラとジョバンニは、ほの暗い楽譜に踊る死と生の美しい和音の基底音として響き渡っている。


「銀河鉄道の夜」本文引用先:青空文庫

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