あけましておめでとうございます!
・・・しかし
なぜ 「(年が)あけると」めでたいのか? について考えてみた。
まず第一に「あける」は「明ける」なんだけど「開ける」にも通じるようだ。
新しい年というサイクルがまた始まるということでは「開」なのだろうけど、初日の出のイメージにもあるように「新しい年の象徴である最初の太陽があらわれー>明るくなる」という意味では「明」がふさわしい。
ロジック的には「開」なんだけど、イメージ的には「明」ということなんだろうか・・・
「あける」が上記の複合的な意味合いをもつとして、なぜ年がかわる=年があけるとめでたいのか?
365日を日々繰り返して飽きたのか?(笑 というわけでもないのだろうが、「飽きましておめでとう」とも言いたくなる(わけないか・・・)。
まぁ太陽のまわりを一回りしたんで「おめでたい!」ということなのか?
しかし、一周まわっておめでたいならば、陸上選手はすべてめでたいことになる。
肝心の「あけまして」についての説明にはならない上に、「おめでたい」とするにはいまいち十分でない。
一般に同じ繰り返しは「堕落」するというか「腐敗」する。
生物学的には、細胞にたいする同一刺激はいづれ無刺激とイコールになり、まったく反応しなくなる。
この場合、時の経過は基本消耗なので「反復は力なり」とはならない。
その限界時間が地球が太陽を1周する365日ということなんだろうか?
つまり「時間」の賞味期限がきれつつあるのだ。
この365日の営為が煮詰まってしまい、腐臭を発し始めたので それを廃棄し新たにやりなおす機会が到来したということなだろう。
つまり「暦の再生」=時間的リサイクルである。
これじゃまるで どこぞの国の政権交代と変わらんが、ある意味真理かもしれない。
さて、「あけまして」(明・開)の表現の元ネタは、有名な天岩戸伝説ではないだろうか?
日本には天照(アマテラス)信仰が古くからあり、太陽信仰の国である。
まさに日本=ヒノモトの国である。
正月の初日の出好きは日本人ならではないだろうか?
天岩戸伝説は、太陽の復活への祝福を象徴的に描写している。
アマテラス=太陽が隠れた後、再度(岩戸が)開き(アマテラス=太陽が)再び明るく輝き始めた時、人々はまさに「めでたい」と感じたのではないだろうか?
1年という時間の更新・再生はそのまま太陽の更新・再生であり、世界の復活である。
つまり日本的には「あけまして」は太陽の輪廻再生完了を意味する。
365日の時間が終端してまた1日目から太陽が新たに始まるというわけである。
この世界が滅びずにまた更新され新たに1年を生きることができそうだ という思いに世界中のみんなが おめでたい=HAPPYと感じるのだろうが、
「あけまして」は非常に日本的表現であり「・あ・け・ま・し・て おめでとう」とは
太陽=神によるこの世界の再存続許可に対する感謝なんだろう。
